←今は上海市第一人民病院となっていますが、ここは1924年日本人医師頓宮寛が開いた近代的総合病院、福民病院でした。魯迅の妻の許広平も1929年ここで出産したそう。

現在のこの建物は現代になって新しく建てられたもの。
当時の建物はこの奥にのこっているそうですが、6階建ての立派な建物だそうです。
↑そして、福民病院のすぐ近くにあるのが現:虹口区教育学院実験中学で、1907年日本居留民団の子弟のために創設された北部小学校。重厚な石造りで、窓も多く教室内は明るく、日本本土の小学校とは比較にならないほど立派な小学校であったそう。

そして、この小学校の場所は、もともとアメリカキリスト教会の出版機構”美華書館”の新印刷工場があった所だそうです。美華書館は、宗教関係以外に、伝票や書籍も扱っていた当時の中では設備が最高で、規模も最大の印刷出版機構であったそう。

多倫路にある鴻徳堂のアメリカ人キリスト教宣教師、費啓鴻が非常に力をいれた宗教関係の出版印刷機構で、彼がこの土地に新工場をつくり、工員はほとんどがキリスト教徒で、200人以上もいた大きな工場だったとか。しかしながら1905年上海で対アメリカ商品に対するボイコットがおき、また虹口地区での日本人の勢いが増していた関係で、経営がうまくいかなくなった工場の土地は、小学校として日本人に買われてしまったということでした。
←通りからみた小学校の入口の様子。

入口上部をよーくみてみると、なんと真ん中にKという文字を彫った彫刻がみつかりました。  →

内緒で小学校の中にいれてくれたガードマンさんは、この入口は後から作られたもので、当時のものではないというのだけれど、北部小学校が”ほくぶ”ではなく”きたべ”とかって読んだとしたらKというのは、それの頭文字なのではないかしら?なんてちょっと興奮気味に考えてしまいました。
←校内に入るとすぐ目の前に大きな石造りの階段がありました。ここを当時の小学生も、元気よく登っていったことでしょうね。    こちらは、廊下の様子。   →

ガードマンさんの話では、当時この小学校に通っていた日本人が、昔をなつかしがって今でもよく日本から訪れに来るのだそうです。
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