1906年11月13日に生まれた婉容は、正式名を郭布羅・婉容 といい、字は慕鴻、号を植蓮といって、原籍は内モンゴル自治区の達斡尓族。祖先は、清朝の将軍を務めたこともあるくらいの由緒正しい家柄。
父親は内務府大臣の郭布羅・栄源で、母親は愛新覚羅氏だが、彼女が二歳の時に生みの母親はなくなってしまう。養母は愛新覚羅・恒馨。しかし、養母も彼女をとても可愛がったため非常に仲のよい母娘であったらしい。父親 郭布羅・栄源は、男女平等という非常に進歩的な思想の持ち主だったため、娘にも男と同じ教育をさせた。絵画、琴というたしなみ以外にも、当時はとても珍しく家庭教師をつけて英語も習わせたほどで、彼女は贅沢な環境の中で子供時代をすごしたそうだ。

婉容は美貌の持ち主であり、聡明で西洋思想をみにつけたモダンガールであったが、16歳で宮廷に嫁いだことにより、彼女の悲劇的な人生がはじまってしまう。

当時の封建君主制の中、自由を失われ、そして歴史的運命に翻弄された彼女。
人を愛すことを知らなかった皇帝からは、女性としての愛情も得ることができず、また、第二夫人文繍のように、宮廷から離れ溥儀と離婚するという勇気ももてなかった彼女は、少しずつ精神を狂わせていく・・・。
悲劇の一生で、歴史の犠牲者である婉容は、最後アヘンにのめりこみ、アヘン中毒で、1946年6月2 0日40歳の若さでこの世を去る。
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