海老沢泰久
昨年福岡にいってから、ますますキリシタンに興味をいだくようになった私は、新聞の紹介欄でこの
”青い空”をしって、早速かってみました。

異国の宗教でありながら、なぜ当時の人があれほどまでキリスト教を信じ、そして迫害されてもなお、信仰心をすてなかったのはどうしてなのだろうとずっと思ってきたけれど、この本にある当時の時代背景をしると、なんとなくその理由がわかるような気になってきました。当時の人口1800万で、約2%の40万人が信者だったということだから、今の日本のキリスト教信者よりも多い数の信者が当時いたっていうことですね。

宗教という問題はなかなか一言では片付けられないし、私も無宗教でありながら、じゃー神様に祈らないかといわれたら、何かあるとやはり神様という言葉がでてきてしまう。
そんな時の神様って別にキリストじゃないし、仏じゃないし、はてさて自分はなんていいかげんなんだろうと、日頃から思っていたけれど、それでも間違ってないのかも、とこの本は思わせてくれる。
もちろん宗教が悪いとも思わないし、それは人それぞれ個人の自由があるわけだから、それが正しいとも間違ってるともいえないこと。

この著書は、一番親近感をもつ宗教といえば、”神道”だといっていたけれど、なるほどなんとなく文章からもそういう気配が感じられる。だからといって、本の中で神道だけを極端におしつけることはしてないし、いろんな角度で宗教というものをみているので、いやな気持ちにはならない。もちろん、”神道”は素晴らしい!!とは思わないけれど(笑)。これがいいんだ!とばかりに宗教をおしつけてくるような本は勘弁です。

今まで、”うちは何々宗”とかっていうお葬式の時のそういう習慣はいつできたんだろう?祖先からそうだときめられてるけれど、なんで祖先はそれを選んだんだろう?と思っていたけれど、この本を読むと、なるほどそういうことかなっていうのがわかる。

そういえば、これを読んでる時に、まったく別の新聞の社評かなにかで、「日本人の宗教観」についてかいてる人がいたけれど、それを読んだらとてもこの”青い空”と結びついておもしろかった。
それは、戦後日本人は宗教心まできり捨ててしまったのではないか?という内容。

”江戸時代、無病息災や加護をいのって感謝をささげるため、寺社参拝をした人々の意識には、宗派の違いや教派の違いはなかったのではないか。日本人が神仏に手を合わせるのは宗教ではなく宗教心である。神仏に手を合わせるという先祖代々の美風、日本の心髄といっていいものがすてられたのではないか。何か人間をはるかに超えた存在にひざまずくという心は、物質主義、傲慢の氾濫する現代にこそ求められる。”

ということだったけれど、この本の中で、字源太という主人公はキリシタン類族にうまれてきたけれど、本人はキリスト教を信仰してはいなく、でも”空の上には神がいて人間のやることはみんなみている”ということを信じている。宗教心というのは、そういうものかな。

私もそう。なにか一つの宗教を信じようという気にはならないけれど、でも心に必ず神様はいる。それはキリストでも仏でもなく、でも神という存在のもの。嘘をついたり、悪いことをしたら、他人の目はごまかせても自分自身にウソはつけないし、必ずそれを神はみていると思う。だからこそ、なにか困ったことがあったら”神様助けて”になるし、いいことがあったら”神様がみててくれたんだな”って思う。

そういう考えは邪道なのかな、無宗教なのに神とか勝手に名前をかたったりしたら失礼になるのかな、なんて思っていたけれど、この本をよんで、あ、これでいいんだな、自分なりの考えでいいんだな、なんて妙に安心してしまった私。

厚いけれど非常に読み応えのある本です
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