この本はその存在を知った時からなんとしても読みたいと思っていた本でした。私は昔からキリシタンの歴史やあの時代とかになんともいえない思い入れがあって。
教科書や、小説ででてきたりすると、わくわくというか血が騒ぐというか、心を揺さぶられるような気持ちがしてくるんですね。もちろん楽しいだけの内容でないので普通のわくわく感とは違うのですが、この時代にいきていたらどうだったのだろう・・・とか当時の人はどんな風に異国の文化を吸収していったのだろうとか思うとなんであの時代にうまれなかったのかと悔しくなるくらい。

島原の乱の天草四郎は夢中で伝記物とか呼んだ記憶があります。まだ訪れたことはなく、たった一度あった機会は災害の関係でお流れになりました。小学校の頃家族旅行で九州に行き、島原にもいったんですね。だけど旅館についてすぐ雲仙岳が噴火して・・それから島原にはついぞ訪れる機会がありませんでしたがこの本を読んで今またすごくいきたくなってます。

南蛮仏を手にした時これはきっと隠れキリシタンの使っていたキリスト像と関係あるに違いないと勝手に憶測して読み始めました。本の表紙は淡い緑。私がHPで使用してる背景の色合いとそっくりで、
なにかこの本を読む事になっていたような運命さえ勝手に感じてしまったほど。

先祖代々伝わるその南蛮仏の由来、そして自らのルーツをたどっていった中薗さんですが、最終的にその南蛮仏のはっきりとした由来、彼のルーツは憶測の域をでませんでした。
でも先祖代々伝わるものがあるということそして自分の祖先が、歴史上の名高い人物と深い関係があったかもしれないという”探れる運命”を彼がもてていたことに憧れを抱きつつ、自分のルーツというものはすごく意味があり、大切なものだと改めて思い知らされた気がします。
私のルーツには歴史上に有名な人との関わりとかはないでしょうし、先祖代々伝わってきたなんてたいそうなものはありませんが、だからってつまらないって事では決してなくて、大切なのはそこからつながって今の自分がいるということの時間の流れ、そしてそこから感じるスピリッツみたいなものじゃないかと。

本当はこうだったのでは?あの時代だったらこう動いたんじゃないか?という歴史の謎解きみたいなのを加えながら、お話は進んでいきますが、異教とみなされた日本のキリスト教伝道は、当時すべての資料を焼きはらわれたりされ、もちろんそれまで信仰して来た人も隠れるなり改宗するなり残せるものはほとんどなかったでしょうから今となっては伝道に行った側としての資料のみが海外に残っているだけだそうです。後世としてはもったいない話だと思いますが、当時にしてみれば命がけですからね。

命を捨ててまで改宗しなかった人もいるといわれてますが、そこまでその人を支配した神の存在というのはどれ程のものだったのでしょう。踏み絵というのをつくったほうもすごいと思いますが、大抵の人は
”たとえ信仰してて踏み絵を踏んだとしても神にばれるわけではない、神様だって命がかかってれば許してくれるはず”という風には思えなかったそうですからね。
そういう気持ちは純粋すぎて、きれいすぎて、読む側の私からしたら痛々しいほどです。

余談ですけど、カラーパープルという小説を書いた著者があるインタビューでいってましたが、日本人の桜に対する思いは桜にスピリッツ(魂)があるからなんだそうです。スピリッツはもちろん人にもありますしそれがルーツとなっていってるわけですが、ものや場所にもあるんだそうです。日本人が桜に魅せられるのは桜のスピリッツを感じているからなんだそうです。そう思うと、なおいっそう日本人としてのルーツを感じることができることって素晴らしいなあとそんなことを思いました。

この作品を最後に中薗氏の作品は読めなくなってしまいましたが、彼のスピリッツは消えることなく永遠に流れ続けていくことでしょう。
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